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な〜んか、自分は乗れていない感じがするというリンクを導入して、なんか乗れていないと思うことを書いてみよう。
「推し活」とか「推す」とかって、2025年の日本においてはかなりカジュアルに流通している概念と感じている。今年、ぼくは特にMAZZELというグループのことが好きで楽曲を聴いたり動画を観たりを楽しんでいるのだけれど、個人の心情としては「別に推してはいないね…?」という感覚が続いている。推しとはなんなのか…。
「推す」というと「自分 → 対象」という向きの矢印があると思うのだけれど、自分のエンタメの消費スタイルは「対象 → 自分」という観念がかなり強固に存在するのだろうなあ。「この曲を盛り上げるぞ!」とか「このグループを有名にするぞ!」みたいな、対象についての能動的なアクションは自分からは出てこない感じがする。もっともっと、ただの消費者って感じなんだよな。
音楽アーティストに関して、新曲が出たときに「みんなで動画をいっぱいまわしましょう!」と声をかけあっているような人たちがいて、なるほど、これが「推す」ということで、この人たちのような人々の集まりが「ファンダム」なのだろう、と感じる。厳密な定義に沿っているかどうかというよりは、自分と、そのような人々との間の隔たりを理解する上で、こう考えると理解しやすいという意味で。
思い返してみると、会社員をやっていた時期も「新サービスをリリースしました!」みたいなソーシャル・メディアの投稿の「拡散希望」みたいなやつには乗れていなくて、自分は、自分が投稿したいと思ったものを、投稿したいと思ったときに投稿するだけなんで…というスタンスだった。ソーシャルメディアとの付き合い方ポリシー2025にも書いたような話だ。
聴きたい曲を聴きたいときに聴くだけ、観たい動画を観たいときに観るだけ、自分はそういう消費者。「動画は初動が肝心です!みんなでたくさん再生しましょう!」みたいな流れに乗れずにいる。この件に限らず、流れに乗れていないときはちょっと寂しく感じるんだよな。流れに乗れる方が楽しそうだな、という想像がある。
記事では「いつも誰かに「支えられている」彼女たちが、“自分”のためではなく、“誰か”のために「支える」ことこそが、生きる力に繋がるのかもしれない」と結んでますけど、これは本当に考えさせられますよね。
人間は「推し活」をすると「幸福寿命」が延びる可能性が高いらしい|徳力基彦(tokuriki)|note
寿命の中でも幸福寿命や健康寿命に興味があって、毎日を楽しく生きるヒントを見つけたいと思っている。「推し活」っておもしろいなあ。どうも自分は「推す」「推し」についてピンときていないような感触で、人生のどこかのタイミングで推しが見つかったりするのだろうか、とぼんやり考えながら過ごしている。特定の対象としての「人間」に傾倒しないタイプなのかなあ。